新元号「令和」が初の国書からの典拠であったということで、改めて歴史的な書物がクローズアップされていますが、今回はそんな中でも国家事業として公式に編纂された歴史書である『日本書紀』について取り上げてみたいと思います。
『日本書紀』は、神代(かみのよ、かみよ、じんだい)から第41代の持統天皇までの時代を収めた歴史書です。
我が国の歴史書と言えば『古事記』も有名ですが、『古事記』が上・中・下の全三巻なのに対して『日本書紀』は全三十巻ですから、情報量が圧倒的に違います。
『日本書紀』は681年に第40代の天武天皇が川嶋皇子などに対し「帝紀および上古の情事」を記録するように命じ、中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま)と平群臣子首(へぐりのおみこびと)が執筆し、編纂がスタートします。
その後720年に完成し、第44代の元正天皇に呈上されます。
『日本書紀』は国家的事業として公式に編纂された歴史書、つまり「正史」に位置付けられます。
その後、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三大実録』が編纂され、あわせて「六国史(りっこくし)」と称されますが、『日本書紀』はその筆頭の書となります。
さて、実は『古事記』も天武天皇が編纂を命じたもので『日本書紀』よりもちょっと早い712年に完成しています。
なぜ、同じ天皇が同じような歴史書を2つも編纂しようと考えたのでしょうか?
まず『古事記』ですが、こちらは序文に、諸家の伝承には誤りがあったり虚偽が加えられたりしているので、それを正すために編纂を命じたことが書かれています。
つまり我が国の歴史について違うことを言ったり、自分に都合の良いように虚偽を加えたりする輩がいるので、それを正した上で、天皇家による統治の正当性を示す趣旨のものとなります。
それに対して『日本書紀』ですが、こちらは海外に日本という国の在り方をアピールする趣旨のものだと言われています。
663年に朝鮮半島で行われた白村江(はくすきのえ)の戦いで、我が国は唐・新羅の連合軍に敗れ、半島の拠点を失ってしまいます。
これを機に天智天皇は、積極的に大陸の制度を導入して政治の刷新を進め、弟の天武天皇の時代にもその方針は引き継がれました。
その一方で、自国の歴史を振り返って、誇りと自信とを回復し、さらには日本という国の在り方を対外的にアピールすることにも力を注ぐようになり、その集大成が『日本書紀』の編纂というプロジェクトだったわけです。
そのため、『古事記』が純粋な漢文体ではなかったのに対して、『日本書紀』は、正格の漢文体で記述されています。
神様の名前も『古事記』では日本語の音を漢字で表現した、「夜露死苦」みたいな当て字なのに対して、『日本書紀』では名前の意味を漢字で表現しています。
例えば「イザナキノミコト」は『古事記』では「伊邪那岐命」ですが、『日本書紀』では「伊弉諾尊」と表記されています。
また、『日本書紀』の『古事記』と大きく異なる点は本文の他に多くの異伝を載せてある点です。場合によっては本文よりも異伝の方が分量が多かったりするので、結構読み進めるのが大変だったりします。
ということで、ここまで『日本書紀』について語ってきましたが、『古事記』と『日本書紀』、最初に読むのであれば迷子にならない『古事記』をおススメします(笑)。
『古事記』を読んだ上で『日本書紀』を読むと、対比しながら読めるので新しい発見もあって楽しめるのではないかと思います。
新元号の典拠となった『万葉集』に興味を持ったのであれば、ぜひその流れで『古事記』『日本書紀』と読み進めていただきたいと思います。